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邦久庵の見学に西海まで

投稿日 : 2019年11月24日 (日)
カテゴリー : 日々の記録

こんにちは。

11月末になって、だいぶ寒くなってきましたね。風邪などひかれていませんでしょうか?
11月の初め頃になるのですが、西海の大村湾沿いにある、邦久庵へ、年に数回の一般公開の機会に行ってきました。

 

邦久庵とは?

邦久庵とは、建築家 池田武邦(いけだたけくに)さんが、2001年、大村湾の畔に終の棲家として建てた家です。長崎では、オランダ村やハウステンボスの設計に携わっていらっしゃいます。日本初の超高層ビルの設計など、近代的な建築に従事してこられましたが、「ビルの中にいると四季を感じなくなってしまった。人間の機能が退化してしまうという危機感を感じた。」という思いから、自然と共生するということを見つめなおした結果、邦久庵が出来ました。(池田さんのお名前と、奥様のお名前の一字をとって名付けられたそうです。)九州の材だけを使って、伝統工法を用いた住まいは普段目にしないものが多く、昔ながらの暮らしを想像することができました。

 

 

立派な茅葺の屋根は、大分県日田の職人さんの手仕事。囲炉裏の煙で蒸すことで、虫や動物を追い出していたんだそうです。断熱性に優れ、屋根の構造は、地元大工さんによって、釘を打たずに全て組まれています。邦久庵を建てる際、池田さんが大切にされたこととして、技術の伝承の場とする、ということがありました。技術は、施工する場がないとお弟子さんに伝承できません。多くの職人さんが直面している問題に、邦久庵をつくることで伝承機会をつくり、一助となればという考えがあったようです。建てた時だけでなく、建物を存続させることで、メンテナンスの度に継承ができるという点も素晴らしいなと思いました。

 

 

一階部分には囲炉裏のある広間があり、広さは能舞台と同じ広さなんだそうです。広間続きでデッキがあり、そこを客間に見立てて、奥様が舞い、池田さんが笛方として能を披露していたそうで、賑やかな宴会がよく行われていたのではないかなぁとその様子が目に浮かびます。

池田さんは戦時中、戦艦大和の巡洋艦、矢矧(やはぎ)という船で測的長を務めていたそうで、沖縄特攻も経験されています。矢矧は沈没しましたが、運よく駆逐艦に救助され、九死に一生を得たそうです。生還後、佐世保の海軍病院で療養されていた時に、穏やかな大村湾に山桜の咲く風景を見て、「平和な時代が来たら、いつかこんなところに住みたい。」と思われたのがこの地を選ばれたきっかけとなっていると言われていました。船に乗っていた時の名残からか、邦久庵は細長い、船のような形をしています。デッキからは、日の出・日の入りが見えて、季節によって太陽の向きから時間を知ることが出来ます。自然と対話しながら暮らす、という部分もありますが、池田さんの過去を知るとともに、戦争についても訪れた人が記憶をたどるきっかけを得る住まいになっています。

 

 

2階は書斎になっていて、茅葺の屋根を実際に間近で見ることが出来ます。窓は特注で、池田さんのこだわりが詰まっています。

 

 

↑デッキからの眺めです。ここに座ってゆっくりしたり、食事をとったり、時にはお昼寝をしたり。セカンドリビングのように使えるデッキは、改めて生活を豊かにしてくれるなと感じました。

邦久庵は、終の棲家として建てられましたが、池田さんは2019年現在御年95歳。ご高齢となった今は東京にお住いの為、数年間空き家となっていました。住む人がいなければ当然建物は荒れてしまいます。そこで邦久庵の建物と、技術の継承機会を守っていこうと活動している邦久庵倶楽部のみさなんによって現在は、維持・管理されています。

味噌づくりや、邦久庵の大掃除を通して昔ながらのお手入れの仕方を学ぶなど、ワークショップ形式で邦久庵で過ごす体験ができます。いつも参加されている方とお話をする機会があったのですが、「邦久庵で生活の根本の部分に触れ、理解することで自然と毎日を丁寧に暮らすようになり、気持ちが良いです」とおっしゃられていました。様々なことを見つめなおすきっかけになる気がします。

今回のブログでは紹介しきれていないこともたくさんあります。邦久庵のホームページから随時イベント内容が更新されていますので、ぜひご都合がつけば一度足を運んでみてください^^

 

 

 

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